昭和41年11月5日 朝の御理解 (末永信太郎)
何に寄らずそうでしょうけれども。特に信心には、気迫が必要です。気迫です。迫るようなもんです。胸半分の信心でおかげの頂けるはずはありません。どんなに体が疲れておっても、どんなに体の、例えば病気をいたしておりましても、(ごしん?)て言うたらシャンとなるくらいな信心が必要です。ね。その気迫と、こう申しますが。その、まあ気迫は誰でもはじめから出るはずはありません。ですから、気迫の出るような信心をしっかり頂いとかなきゃいかんのです。ね。私ども、御本部へ参拝いたします。どんなに間中でありましても、あの、奥城に出ます。(あの石畳みの椅子に?)座りましたら、もう大祓い一巻も上げて御祈念をさせて頂く頃には、何か汗の出るような思いがございました。それは、脇から見とっても、そういう風に見えたと思います。ね。はじめから出来やしません。ね。ですから、問題は、あの信心はですね、あのいいかげんなものでせずに、本気で稽古する事です。ね。いわゆる、信心は命だというような事を申しますけれども。その命以上なものです。これはあの、何の道でも同じです。ね。その道を本気で、その事が自分の命だというように真剣に取り組んで稽古をした事などはですね、それが現れるんです。例えばあの、歌舞伎役者なんかも、70にもなり、そのようにもなってから、舞台に立ちます。もう、楽屋ではよぼよぼしておりましてもですね、いったん、その(いせいにつきましても?)、花道のあの袖のところに出てきます。ね、開くあの幕がありましょう。あんところに出て来ると、型がシャ―ッとなって。それで(死体が川で脅されて)あそこにも連れて来とるようなであってもです。その、気迫とは素晴らしいものです。それはですね、その芸なら芸事ということを、自分の命として稽古しとるからですよ。私は、いつかそういう一つの気迫にも似たようなものに、あの振れた事があるんですけれど。ある、正月の御挨拶に、親教会に出ておる途中でございました。どうしたはずみからか、私の袴がほころびちゃったんです。ああ、これ、このまま行けんからと思うて私、(あなた?)の所にやらせてもらいました。そしたら、( )さんが一人で店番ばしておられました、ご主人が。すいませんけれども、この袴がほころびたんですよ。どげんかして下さいち言うて寄った。( )これ脱ぎましょうかち。いいえ、そのままで結構です、と言うてから、もう縦膝をこうされてから、私の袴ばこういう風に持たれてですね、そしてから、こげな風にしてから、パーッとこう、塗られた時のその気持ち良さと言うですかね。そして、普通だったら、( )、もうパーッと、もうあっという間に塗られた時なんかはですね、両方の足をパチッと結い上げてから、その、もう伸びてるんですね、その縫い目が。もう、私はあの、あれなんです、気迫とは。それは、いかに原さんのです、その針を持つこと、いわゆる洋服を縫わせるという事にです、仕立て上げるという事にです、ね、いわば弟子の時代から命をかけられたかという事が分かるです。親もこう、この洋服という商売で、本当に一生終わらんならん。これで、家族の者を養わんならん。それなんです。( )です、久保山先生辺りにです、例えば筆を持たせて御覧なさい。もう、絶対いいかげんな事はなさいませんよ。これはもう、絶対です。筆だけじゃ、ペンでも同じです。まだ、このテープがない、書記でしたが。もう、それは崩せるだけの崩してある書記のしてある以前、もういいかげんなものがなかったですから。もう、先生のこれに限ってだけは。ね。だから、神様にあの間違いのない、ごまかしのない生き方で行ったら、素晴らしかろうと私は、その思うんですよ。ね。皆さんが、それはね、一生をしだごだで( )人がおりますよ。例えば、なら原さんなら原さん辺りのように、一言でも打ち込んで。その命という風に感ぜずままに一生を終わる人がありますよ。私は、その人は不幸せだと思う。自分が( )一つの仕事を、もう他に(ついじょ?)を許さんのです、これは。ね。ですから、私は思うです。ね、まして信心です。私どもがこれは確信することはです、人間の幸せ、人間の幸福というものはです。ね。信心の徳を受けなければ、人間の幸福はない。しかも、この世だけではない、あの世までの幸福です。あの世までの幸せを頂くならです、信心の徳がなければ出けないという事を、私どもは確信しておる訳でございますけれども。ね。そういう信心を頂くのでございますから、なおさらのこと。いいかげんな事っじゃ駄目です。ね。いわゆる、信心は私の命だというところまでぐらいは、一つならなければ駄目です。ね、実を言うたら命以上なものです。その、芸事ですらがそうなんですから。もう、私から、これを抜いたら、もう私は(らくだ?)とこう同じだといったような事を申しますですね。名人と言われるような人達は。それは本当ですよ。それは、例えば、んなら、あの、芸者さん達でもそうです。どんなに頭が痛かっても、どんなに具合が悪かってもです、一度三味線を渡して( )ピシッとなりますから、姿勢が。その三味線なら三味線に、本当に命をかけて打ち込んでるからですよ。ほれは、もう本当です。私どもは、もう不信心じゃから、もうどんなに( )かろうが、どんなにきつかろうが、どんな( )でもです、もうこれだけは、その間は頭の痛いほど感じんですから、痛かっても。ね。私はあの、元気な心で信心せよと仰るのはですね、そういう気迫に満ちた信心の事だと思うんです。ね、ですから、それでも、はじめから出来ようとは思われませんて、誰でも。ね、ですから、なら原さんなら原さんが、洋服の弟子にお出でられた時にです。ね、この仕事で、この商売で私の一生をと。この仕事に託しなければならないというくらいな気迫を持っての稽古にならなければ駄目だということです。ただ、おかげば頂くけん。ね、ご利益言われてもですね、例えば、(おとなり?)のことがあるけんで、お伺い事があるけんでぐらいのですね、信心じゃそれを頂けるはずがないです。ね。もう、真実そうですよ。信心のお徳を持ってしなければ、人間の幸せはないて。しかも、その徳というのは、あの世にも持って行け、この世にも残しておけると仰るほどの、いわば有り難い、素晴らしい事なのですから。ね。その信心を本気で、自分のものにさせて頂くところの願いを立てて。ね。本気で、例えば洋服屋で一生終わろうとする人が、弟子入りをする時のあの気迫。ね。その熱意を持ってです、私は、信心は稽古されなければ駄目だと思うですね。どうぞ。